「聖霊が臨む人」ルカの福音書1章26~38節

青森ジョイフルチャペル

マリヤはイエスをみごもることを知らされたとき、「どうしてそのようなことになりえましょう。」と御使いに返しました。一見するとそれは疑いをもっている言葉のように思えます。しかし原語で読み解くと「どのような方法でなされるのでしょうか」という期待の込もった、素直さに溢れた言葉であったことが分かります。

先週のメッセージで登場したザカリヤも、子どもが産まれる事を御使いから告げられています。しかし彼は人間的な常識にとらわれ、その御告げに疑いをもっていました。その結果彼はヨハネが生まれるまでの間、口がきけなくなってしまいます。
神様の権威が働き私たちにその思いを示されるのなら、素直な心で受け取ることが大切だと教えられたことを感謝します。
 この当時の慣わしとして結婚後もしばらくは同棲や、男女の関係をもつことは許されませんでした。また、それに背くと律法を犯したとして石打ちにされ殺されてしまいます。そのような時に聖霊によってみごもるというのは様々な犠牲を払うものでありました。聖霊が臨む人というのは、犠牲を惜しまない人であるということがこの箇所から分かります。
私たちも主が払うべき犠牲を示してくださったとき、それを喜んで払うことができるように祈り備えていきましょう。
また、そのような一人一人を通して豊かな御わざを表してくださる主であることを感謝したいと思います。

メッセージ:澁谷友光牧師
要約担当:竹浪麻央

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